ゆるせる?ゆるせない?

結局のところ、様々な問題が「ゆるせるか、ゆるせないか」という点に集約されるような気がする。
これは音楽にも当てはまることで、「多くを許せる度量」のある人間性が求められているようだ。
一切合切を許さずに音楽を聴き続けるとどうなるかと言うと、何もかもが嫌になるんじゃないかな?と思う。
ただ、金さえあれば大半の面で許さずに過ごせるので、資本力と相談ということになるのだろう。
メーカーやブランドなどを許さずに、特定のものだけを贔屓にしているようでは限界があるように思う。
それは私があまり金が無く、「だったら自分でやってやるよ」と言って、
個人ではしなくてもいいような問題(金で解決すべき問題)に関わり過ぎているのだ。


企業やエンジニアに対して許さないことは、金銭を支払う関係で可能である。
部品を入手して自力で解決するような、変わった音楽をやり続けている人間は、自分以外の何者に責任を問えるのか?
そもそも、責任を問えば許せるのか?という話になる。
私は誰かに音楽を聴かせてもらう立場になりたくない。(もちろんコンサートやライブはべつだ)
つまり、すべての段階で自身が責任を取り続ける音楽をしなければならないのだ。


誰も彼もにそのような音楽を求めるのは、それぞれの資本力が違うので話が飛躍しているが、それでもギリギリのところで責任を果たす義務があると思う。
自分で責任を持たずに音楽をやっているくせに、「自分の部屋には自信がある」などと自慢してくる輩のみすぼらしさと言ったら言葉に困るね。
こちとら金が無くて自分との戦いの結果、「ゆるすか・ゆるさないか」の二択なんだという事実に直面しているっつーのに、
なんて能天気な、そんなのどうしようもないじゃないか。問題は、ついこないだまで「HPD385を許せねえ」と言っていた自分の情けなさに気付いたってことだ。
本当に愚かだった。かける言葉もないくらいに落ちぶれていた。音楽を聴いていない奴のセリフだった。それでも、許せるか許せないかというのは非常にギリギリの問題だった。
金さえあれば許さなくても良かった。新しくユニットを買い直せば解決する問題だった。その金は用意しようと思えば用意出来た程度の額だった。
でも、買い替えてしまえば音楽の本質が金であったと認めることになる。さすがにそんなつまらない音楽をやる気にはならなかった。
HPD385を許す努力をした。ロッサ氏にも協力を仰いで、可能な限りの問題を問わないように、許し続けられるように。


少々自虐的ではあるにしても、悪くない成果が出つつあるので「許す音楽」も悪くないのかもしれないと、思い始めている。