今日気付いたこと 3

では、そんなつまらないことで損なわれた音楽を誰が保証するのか。もちろん自分自身で保証してやればいいのだ。
自分の満足を鳴らす趣味なのだ。他人に保証のしようがない。自分という人間がこれから音楽を鳴らすことに関して保証する。
これまでは、「責任を持つ」という言い方をしていたのだが、それだと責任を取ることしか出来ないのだ。それはマイナス方向への修正だ。
(言霊だとかオカルティックなことを言うつもりはない。ただ何故その単語を用いたのか、その単語に対する認識はどうなっているか?という点だ)


自らの保証が居るのであれば、そうしようじゃないか。特にこれは音楽に限ったことではない。人生の命題と言ってもいい。
自分の感性を自分が保証しないで誰が保証してくれるのだ。そこから自己の肯定に繋がり、その蟠りが解けたときにはじめて音楽を楽しむことが出来るのではないか?
つまらない劣等感を促す人間というのは自分の人生を振り返ってみると、確かに一定量存在していて、当たり前のようにソイツの事は嫌いなわけだ。
だが、それと自分の満足との繋がりである音楽とはなんの関係もない。無いのであれば、無視しても良い。


これまでは、嫌いない奴を無視できるだけの音楽を鳴らしている実感がなかった。
だが、約6年という歳月を経て、金と時間を注ぎ込んで気付いた。その間に懸命に培った技術を自分で認める。等身大で認める。
これだけのことをするのに、必要だったのが金であり時間であったというだけの事だった。