拘りって便利な言葉だよね

本当に便利で、ただ便利なだけな単語だと思う。
「〇〇さんはノイズに拘りをもって音楽をやっているんですね」
と言って、大抵の〇〇さんは悪い顔をしないのだから、まあ便利。
オーディオっていうものは趣味性のみで存在しているものだから、とりあえずこの単語を使っておけば大抵丸く収まるのである。


だが、ほんとうにそれでいいのか?と感じたわけだ。
正確に云えば、「マキシマさんは〇〇に拘りをもって音楽を聴いているのですね」
と言われたときに、該当しそうなワードが存在しないというか、自分では認識できていないというわけだ。
これは話が変わってくる。おれも適当に褒められて「さも当然」みたいな顔でその場に居たい。デカい顔したい。が、全くその光景が見えない。


おれの拘りってなんだ?何を考えて音楽を聴いている?そんな分かり切っている。実は、自分では知っているのだ。
拘りっていう要素を排して音楽を楽しんでいると。
その事実がなんだか「あれ?マキシマ君って音楽あんまり好きじゃないの?」って指摘されそうで実に後ろめたいのだ。
自分が如何に音楽が好きかなんて、どんな弁舌をもって語ろうとも、なんだか陳腐過ぎて話にならないじゃないか。


そもそも、拘りを持っている、という尺度は、それを言う人間の知識に依存するのだ。
なぜそんな他人の尺度に関する話題で一喜一憂せねばならんのか?
その一喜一憂がどれだけ自分の音楽観に影響のある話だというのか?
なんか最近そういうことがどうでもよく感じているのだった。正確に云うと、そんなどうでもいいと嘯いているにも拘らず、
なんとなく自分の中に残っているのが腹立たしいだけだった。