今月の活動目標

今月の目標はレコードを聴くことだ!レコードプレイヤーというよりはフォノイコライザーだな。
と云うわけで、ちまちま部材を発注したり、キャビネットになりそうな板を探してみたりしたんだが、
ついに近日中に聴けそう!ってところまで漕ぎ付けられた。が、たぶんここで気を抜くと完成しねえぜ・・・。


気合を入れてフォノイコライザーの製作にあたっている。基板は既に作ってあったものを使うんだが、
今回はフローティングユニットが凝ったギミックになっている。これは今後製作するものすべてに適用されるだろう。今後があれば。
なにはともあれ板を切り出さなければならん。スライド丸鋸という実に贅沢なアイテムも完備しているので、
手間はなかったんだが、廃材利用として用いた15mm厚のMDFに、五年前の日付があった。
五年前、何してたかと言えば我々はスピーカーを製作していたのだ。記念すべき最初のモデルが産声を上げたのが五年前。
それからなんやかんやで様々なアイテムを作ってきたが、その最初のトライが五年前か・・・。


驚くほど上達した、と思っているが、五年もあれば当人に向いた趣味なら適当な成果が出るような気もする。
まあ、五年も続かせるほうが大変だと思う。が、たぶんテンションとかだけで言うなら五年前のスピーカーと今作ってるフォノイコライザーに差は無い。
今も昔も差ほど変わりなく、音楽と相対している、自分がいるというのが少し面白かった。

革命は楽しいか?

結論から言えば革命は楽しくない。まったくもって楽しくない。
革命的な変化というのは、勝手に起きる現象だった。革命を起こそうと尽力している人間というのは少数の人間であり、
実際にもたらされるのは変化であって恩恵ではなかった。


で、その変化というのもまた厄介なものだった。ある時を境に全てのものが過去のものになる。これは革命というよりは悪夢と言っても良いかもしれない。
革命に対応した行動をとれない人間にとっては悪夢だろう。私にとっては革命であったことが、唯一の救いだった。

PCオーディオをやってみる 2

「なんということだろう、素晴らしく音がよいではないか。旧世代のクソ高いDACってのはこんなにも実力を秘めていたのか」
それが私の最初に思ったことだった。今回の方式においては、DACの耐入力はCD音源、つまりハイレゾでもなんでもない、
CDから無圧縮でリッピングした音源になるのだが、それでも驚異的なパフォーマンスを示した。
「CDって、こんなにたくさんの情報が入っていたんだ・・・」とか、
「CDプレイヤーって、非合理的なアイテムだったんだ・・・」等、様々な発見と共に私の中でCDを再生する、という音楽ライフの終わりを感じてしまった。
そのくらい圧倒的な性能があって、DACに対する投資も無駄にはならなかったという満足感。もうPCオーディオをメインに戦っていくしかない。


そうなると、リッピングして聴くということの面倒臭さに直面するわけだ。その点に関して鬱だ・・・。

PCオーディオをやってみる

結論としては「DACを買え」と言うことになる。それも、複数のソースの切り替えのできる奴を買えと。
特に古いDACがオススメ。PCオーディオという概念が無い時代の、CDトランスポートの変換装置たるDACがいいだろう。
その時代のDACというものは、最高級品という位置づけになる。各メーカーの最上位機種と云うわけだ。
当然ながら贅沢な音作りがされており、現代においてもまだ高価なしろものである。
今年一発目の実験は、PCオーディオのNASSと、その旧世代のDACの共演の実験をやってみた、ということだ。


現代においてDACと言えば、かなり安価なものが主流になってきている。デジタル信号を変換するだけなので、
実は原理的にはそんなに金は掛からないのだ。そういうシステムで音楽を聴いているユーザーも非常に多く、
「このままでは旧世代のDACの存在価値ってなくなるんじゃね?」という危機感さえ抱いたものだ。
が、安価なDACでのPCオーディオと、旧世代ながら最上位クラスのCDプレイヤーの音を比較した場合、
ある程度の差を以て後者のほうが勝る、そう私は考えていた。実際そのように選択し、PCオーディオはあまり使用することがなかった。


だが、きっかけと言う物は訪れるものである。そして、気になったら試すしかない。実験するしかない、
というのが私のモットーだった。当然テーマは
「旧世代のDACを用いたPCオーディオをやってみる」
だった。そして発見されたアイテムがDDCという装置である。
PCオーディオの吐き出すデジタル信号を、オーディオ装置が読み込めるデジタル信号に変換する装置が、それである。
最近のDAC、そのなかでも少し上位な(と言っても10万円前後)モデルに搭載されているものが多い、RCA端子によるデジタルアウトプット。
コイツの信号を、旧世代のDACに送り込むことによって音楽を再生できるのではないだろうか?という点については予てから頭にあったのだが、
如何せん値が張る。たった一つの興味に対して、中古でも数万円。それが戦力になるのか分からない、そういうものに対する投資が出来なかったので
先送りにされ続けてきたのだが、この春、「本当に安価で、バスパワー駆動のクソ安いDDCでもいいんじゃね?」という閃きが私を襲い、
3000円と掛からずに実験出来たのでやってみた。そしてマキシマの音楽人生は次の章に突入してしまったわけだ。

今日気付いたこと 3

では、そんなつまらないことで損なわれた音楽を誰が保証するのか。もちろん自分自身で保証してやればいいのだ。
自分の満足を鳴らす趣味なのだ。他人に保証のしようがない。自分という人間がこれから音楽を鳴らすことに関して保証する。
これまでは、「責任を持つ」という言い方をしていたのだが、それだと責任を取ることしか出来ないのだ。それはマイナス方向への修正だ。
(言霊だとかオカルティックなことを言うつもりはない。ただ何故その単語を用いたのか、その単語に対する認識はどうなっているか?という点だ)


自らの保証が居るのであれば、そうしようじゃないか。特にこれは音楽に限ったことではない。人生の命題と言ってもいい。
自分の感性を自分が保証しないで誰が保証してくれるのだ。そこから自己の肯定に繋がり、その蟠りが解けたときにはじめて音楽を楽しむことが出来るのではないか?
つまらない劣等感を促す人間というのは自分の人生を振り返ってみると、確かに一定量存在していて、当たり前のようにソイツの事は嫌いなわけだ。
だが、それと自分の満足との繋がりである音楽とはなんの関係もない。無いのであれば、無視しても良い。


これまでは、嫌いない奴を無視できるだけの音楽を鳴らしている実感がなかった。
だが、約6年という歳月を経て、金と時間を注ぎ込んで気付いた。その間に懸命に培った技術を自分で認める。等身大で認める。
これだけのことをするのに、必要だったのが金であり時間であったというだけの事だった。

今日気付いたこと 2

本来自分の満足感なんてものは、他人に決めさせちゃいけないもんだ。
当人の満足度が他人に正しく観測できるわけがないのだから、それはそうだろうと私は考えている。


では、オーディオとはなにか。満足とはなにか。争点はその辺になってくる。


まず、オーディオとはなにか、という点について簡単に考えてみた。
それは、「個人の自己肯定感を刺激するためだけの物なんじゃね?」という大変危険な思想である。
この際踏み込んで考えよう。自己肯定感がなければ満足って出来ない。これが私が今日気付いたことの半分だ。
私はある背景があって自己肯定をするのが苦手な個性を持っているのだが、そういう事情は完全に音楽に反映されていることに気付いた。
簡単に言うと、自分を否定しているような音楽だったわけだ。本来人間というのは自己否定も自己肯定も必要が無いくらいの位置で自分を見下ろせばいい、
もしも人格的に否定が先行するようであれば、適度に自己を肯定するように気持ちをコントロールし、その逆なら否定を覚えて過ごせばちょうどいい。
今回は自分の思ったことなので、否定が先行した例を挙げるが、「じゃあ誰が否定したんだ?」って、そういうのは自分の背景にあるわけで、
そういうものを超越して現在を生きているわけで、「なら今の自分を否定しているのはいつの誰だ?」と言うことになる。


「なんで過去の誰とも分からんやつに馬鹿にされたことを気にして生きてきたんだ」
しかもそれが音楽に、今まさに再生されている音楽に影響があるなんて、なんてつまらないことなんだ!